息子と公園に行って
新しくお婆ちゃんから買ってもらった
新しいボールと共に遊んできた。天真爛漫っていい事だ。子供だから許されるw
俺はへとへと だけど まだまだ 遊ぶ余地ある“あの阿呆〜”は
公園の駐車場にあった小さな木を見て 登りたいと・・・w
がんばれ がんばれ
登り始めたけど 途中までしか行けないw
あぁ〜これ 人生に似てる・・・w
人は良くテッペンに 登りたがるね
なんでだろ・・・
俺も テッペン目指してたっけw
小さなテッペンは 何度も行けたけどねw
テッペンって 登れば確かにね
気持ちが良いものがあるさ
テッペンに登れた者しか見えない景色も経験も
そして 登ってきた自信もついて 悪いことじゃない。
けど 木を登る姿のあいつを見ていると
良くわかるんだけど・・・
登るには 恐怖がある。
恐怖?
足が届かなくなった恐怖。落ちたら痛い恐怖。
人生において テッペンを目指して
登れる奴と 登れない奴
何が 違うかって言うとね
それは 登る選択をしているか
登らない選択をしているかの違い。
テッペンの景色見たいから登る vs 落ちたら痛いから登るのやめる
登る選択をするには 恐怖がある
人生の選択も 安定側か 恐怖側か
もしくは 妥協側か チャレンジ側か
もっと言うと その途中過程での選択で
満足側か 未達成側か
その選択をもって
テッペンに登れるか 登れないのかが
はっきり別れると感じるぜよ。
石橋を叩いて渡るって言葉もあるけど
それは 結果が見えていない結果に対して
盤石な基盤という選択が
自分なりに出来ていると言う設定で進む。
結局のところ 安全と思って進んでいると言う
チャレンジをしていることだから
結果 テッペンに登ろうと言う選択を
しているに過ぎないんだな・・・
木のテッペンに登る方法は
十人十色 と言うか 千差万別。
あいつが木のテッペンに登ることが 目的とするなら
はしご使ったって良いし
俺があいつを おんぶして登っても同じ。
あいつは まだ自分ひとりで登る方法しか
見当たらないから いつまでも
木にぶら下がって(笑)
人生なんだから
方法は 何だって良い。
自分が得意とするなら 自力でたどり着けば良いし
自分が弱いと思うなら 人の力を借りれば良い。
けど 一番 テッペンに行けないのは
テッペンに行こうと思わない心。
テッペンに行こうと思わない事が悪いわけじゃない。
テッペンに行けなくたって楽しい人生はたくさんあるしね。目指さない選択も一つの正論。
ただ テッペンに行こうと思っても
なかなか 行けない人達が一番 始末が悪いさね・・・
もう一つの始末悪いのが テッペン登りたく無いのに無理やり一緒に登らせようとする奴。
こう言うのは手に負えない。頑として自分を登らせようとするなら もう無視しか方法がないw
俺も昔は 登らせようとしていた張本人だから その気持ちよくわかるけど...
登りたくないって言ってんだから 気がついてあげてねって今はそう思う様になりました...w
最初の始末に負えない人の問題は
行きたいと思っているのに
行ける選択をしてないから。
テッペンに行けた人を 羨ましがる時間とお金があるなら
まず テッペン登れる選択をしよ
怖くたって良いんだよ〜
10mのある高い木から落ちたら そりゃ死んじゃう恐れもあるけど
自分が思ってる目標のテッペンに行く途中で
挫けたって 死ぬわけじゃないし・・・
もっと気楽に気楽に。
そう言ってる・・・わたくし オッサンは
我が人生のテッペンから もしかしたら落下したかもしれないw
けど こうして 生きてる自分がいるし。
また 木を登ろうとしているし
今度は 人から騙されないように ちゃんと勉強したし。
アタックゼロ洗剤で洗濯したシャツは白くなるんだってぇ〜w
また 新しいシャツで過ごせる1日がやってくる。
ふんふん。。。
だったら人生の選択を正しく自分らしくしたら
すっごく 楽しくて美しい1日が やってくるに違いない。
そう思ったら チャレンジ 洗濯 アゲイン だw
洗濯じゃなくて 選択ねw
お粗末様でした♪
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